9/23/2005

ARTE PIAZZA BIBAI


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アルテピアッツァ美唄のことを知ったのは、全くの偶然に安田侃氏本人に教えてもらったからだった。4年ほど前、その日は用事があって友達と目黒の自然教育園へ行って、時間が余ったから隣りの庭園美術館へよった。そのときの展示はまるで覚えていないが、庭園美術館はアールデコが好きなのでたまに行く。ふらふらしていたら日が沈む少し前の庭で白い石の塊を磨いている人がいた。それが安田さんだった。僕がランドスケープアーキテクチュアを勉強している学生だといったら安田さんはからかうように本当に勉強しているのか?といって笑っていた。そのときに北海道の美唄にあるアルテピアッツァに来るようにと誘われたのだった。それからずっと心にとまっていたが今年ようやく行くことができた。

アルテピアッツァを説明するとき、なんと表現すればよいか難しいが、平たくいえば彼の故郷・美唄の小学校の廃校を地とした彫刻家安田侃の作品群である。その日は小雨がかすかに降っているような日だった。安田侃の彫刻は空間芸術だというのは一般的に理解されているのではないかと思う。その作品は水面に投じられた小石のように、空間に作用し波紋を広げていく。僕たちの目には、とても自然でありながら美しい文様を波打つ世界しか写らない。

僕はファインダーを覗きながらモエレ沼との違いを想っていた。前日に行ったモエレ沼でも僕は非常に興奮していたが、明らかにアルテピアッツァでの方が多くシャッターを切っていた。なぜだろう。結論としてここで写真を撮るときにはまるで安田侃と対峙しているような緊張感があるからだと思った。決定的な違いは、アルテピアッツァの全てが安田侃によりかたちづくられているということではないだろうか。イサムノグチは残念ながらモエレ沼の実現を指揮することがかなわなかった。

アルテピアッツァの全ての彫刻は、安田により森や水面や広場や丘や校舎や他の彫刻や空との緊張関係が保たれている。そして、雨やそこを歩く人も、全ては彼の作品の構成要素である。僕は写真でしか見たことがないが、かつての炭坑の街に降り積もる雪はまさに彼の作品の一部である。そういって瀟湘八景を思い出したがここではやめておこう。

安田さんは自分をアルチザンだと言っていた。僕はアルチザンでもアルチストでもないが、ファインダーを覗きながら芸術にみたされるのを感じていた。

9/15/2005

Moerenuma Park


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モエレ沼公園に行って来た。
189haの巨大な彫刻。イサムノグチはモエレ沼で一体何をしようとしたのか、一日過ごして考えた。とても充実した時間だった。

イサムノグチのプレイマウンテンや遊び場のいくつかの小さな彫刻を見たことがあるだろうか。模型と名の付く彫刻作品たちである。

明らかに建築的なそれらの作品を見ながら、多くの人は、特に子供であればそれがミニアチュアであると直感的に感じ、そこに自分を投じて遊ばせる。緩い傾斜の坂を上ったり、あるいは下ったり、複雑な階段を行ったり来たりする。
そのとき感覚的な空間のスケールは現実の制約から解かれ、大地がうねるような広大なスケールさえも感じることが出来る。

イサムは人間と空間の相対的なスケールの操作に彫刻家として強い関心を持っていた。それには、本人の言葉にも現れるように一つのきっかけとして日本の石庭の影響があった。

日本人が私的な庭園にしまい込んでいるスケール操作の技法は、空間の享受の方法としてもっと可能性のあるものであるという想いが、彼をかつてない芸術へと踏み込ませていく。
どうすればよいのか。眺めるだけではない空間の享受、言い換えれば自然の享受の方法があるはずだと(彼は確かに自然の享受という言葉を使っている。)。

しかし、だから実際に人間が歩き回れる彫刻作品をつくったのだということではない。

僕はモエレ沼を歩きながら、そして色々な角度から景色を眺めながら、「神遊」という言葉について思い出していた。
「神遊」とは、すなわち魂の逍遊のことである。仙人や仙女は生命力を得るために盆景・盆栽や(地)図など景色を縮小した霊的な世界に魂を逍遙させる。これを神遊というらしい(ロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』)。

アホかと思われるかもしれないが、モエレ沼へ行った人には分かってもらえると思う。
モエレ沼を実際に歩いていると、神遊に似た現象が自分に起きていることにふと気がつく。ここにいる自分から離れ向こうの坂道を上っていく自分の魂に気がつくのである。
なぜならば、一つには、向こうに自分より先に上っていく人々が小さく見えているからであり、一つには、身体を置いている非現実的なスケールの世界が感覚を刺激し虚構の世界への入り口を開くからである。そして、身体はその後、魂を追って実際にその空間を体験する。
それは心地よいものであり、自分に創造性が回復してくるのを感じると共に、次の体験を望まずにはいられなくなる。

この繰り返しが、人間と世界の関係を再構築していく。その現象を引き起こすことが出来れば、彼にとっては実際の空間の大きさなんて特別な意味を持ってはいなかったと思う。

結論を急ぐのはあまりにもったいないけれど、イサムノグチにとってのモエレ沼での挑戦は、一つとして、彫刻が空間の操作により世界と人間の関係をどのように顕在化しうるかということであったと思う。

8/08/2005

Strength of scenery


OMIHACHIMAN
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都市計画家協会が主催するルーフスケープ(屋根景観)コンテストで「近江の景」という作品で金賞を頂き、8月7日(日)、日比谷公会堂で表彰を受けました。

はじめて受賞のお知らせを頂いたとき、何かの間違いじゃないかなと思った。あまり写真としてはいいできじゃないと思っていたから。ではなぜこの写真を出品したのか。

この写真は琵琶湖の湖畔の風景を近江八幡の八幡山から写したもの。5月の暑い日、ロープウェイで八幡山の上に着いたのはもう午後3時をまわった頃で、湖と水田は傾いた陽を反射して、目を開けられないぐらい光っていた。水蒸気で全てがかすんでいるし、逆光のため、僕ではまともに撮れないだろうー。でも、ファインダーを覗いたのは、圧倒的な風景の強さのせいだったと思う。

良く撮れたと思う場合が2つある。1つは、自分が「見つけたもの」を「見せたいように」切り抜けたとき。もう1つは「(おそらく誰がみても)すばらしいもの」のすばらしさをできるだけ「損なわずに残せた」とき。少し悔しいが、実感としては後者の方が綺麗な場合が多い。

八幡山からの風景は、そんな意味で僕が切り抜くというよりも、そのまま写しとりたい風景だった。銀色にひろがる湖面、空を映すグリッドの水たまり、小さな丘、遠くの山並み、まっすぐな道、そして水面に浮かぶ幾つかの黒い集落。とても強い風景。

「強い」というのは、記号作用によって、僕の中に見えない像を結ぶ強さもあるけれど、それ以上に単純に光として網膜に焼き付く像の力強さ、知識と結ばれる必要のない、網膜的・身体的な風景の力強さのこと。結果として写真はやはり上手くはなかったけれど、消しがたい風景の強さは残ったのかもしれない。

ところで、本当に風景に強さなんてあるのだろうか?それは僕たちにとってどんな意味を持っているのだろうか?
これからも写真を撮りながらそんなことを考えたい。酔狂。

で、コンテストのことだけれど、付け加えると、選んで頂けた一つの理由には、主に屋根を中心に撮っている作品が多かった中で、「屋根がある風景」を撮った写真だったからということもあるかなと思う。都市計画家協会のみなさま、祝ってくれた方々、そして、写真部門委員長で本当にすばらしい『写真都市』にサインを下さった村井修さん、このような機会を与えて下さって本当にありがとうございました。

思い出として、郵政民営化関連法案の参院本会議採決を翌日に控えた小泉首相が、シークレットゲストで突然会場に現れて、大いに盛り上がったことも付記しておこっと。

7/29/2005

Sculpture


my sky hole
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【Japanese】
彫刻は置かれるものである。もしかすると置かれない彫刻というものもあるのかもしれないけれど、かたちのあるものである限り、まあ、まずどこかに(例えば真っ暗な倉庫の中であったとしても)それは置かれるだろう。カレーの市民のところでも書いたけれど、彫刻には置かれる場所がある。

空の穴は、空にあいた穴?空を切り抜く穴?

これは僕が好きな彫刻作品。たぶん見たことのある人も多いはずだと思う。大きな作品の一部だけを見ているから一体どんな作品なのかわからないと言われるかもしれないけれども、この作品のタイトルは『my sky hole』。

僕は、この写真に写っているものを彫刻だと言っても差し支えないのではないかと思う。この彫刻をみるとき、彫刻にとって置かれる場所がどんなに重要かということを考える。あの空がなくなってしまったら、この作品はきっと台無しである。こういうのもEarth Workといえるんじゃないかな。その辺については、もう少し勉強してからいつか言及したい。

ところで、この作品は穴のあいた大きな銀色の球体である。だからこの作品には周りの全てのものが取り込まれる。黒い穴のあいている部分を除いては。だから、空にも穴があくのである。

この美しい彫刻は、東京都美術館の広場に「置かれて」いる。


井上 武吉 Bukichi Inoue 『my sky hole 85-2 光と影』
TOKYO METROPOLITAN ART MUSEUM

7/18/2005

HAUS・HYAZINTH


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This is a house that a young poet designed. After 65 years had passed since he had died, it was built. He died at the age of 24 though he was a fine poet and a fine architect.

【Japanese】
今日は休みだけれども暑くて遠出する気にはならなかったので、最近気になっていたヒアシンス・ハウスを見に行くことにした。


「ヒアシンス・ハウス(風信子荘)」は詩人で建築家であった立原道造が、別所沼の畔に思い描いていた週末住宅である。立原は、平面図やスケッチだけを残して24歳で死んでしまったが、これこれのことがあり、詩人の死後65年たった去年、その小屋は建てられたのである。
立原の構想では別所沼の東に建てる予定であったが、今は西側に建って居る。今は公園になっているので、かつて彼の窓に求めていた景色はここにはもうないだろう。それでもヒアシンス・ハウスは面白い。

小さくて簡素な建物である。彼は窓にこだわった。大きな窓が南東にとられており、今は別所沼を臨んでいるが、本当はこちらは沼ではなく、ベッドサイドの小さな窓から沼がみられるように考えられていた。
今は北東の角に小さな流し台が付け加えられているが、立原の図面には便所も台所もない。本当にここで暮らすつもりがあったのかと思うが、すぐ近くに交流のあった詩人の居宅があり、そこの便所を借りるつもりだったという。

でも、彼はヒアシンス・ハウスの構想から2年で死んでいる。僕は何となく彼は死の影を感じていて、言葉だけをこの小屋に詰め込もうと考えたのではないかと思ってしまう。彼の詩のように。彼の詩集はとてもビジュアルである。14行の詩が、小さな版画と共に、譜面のような大きな紙にレイアウトされている。

Bonsai


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My hobby is a photograph and a bonsai. This is a bonsai of the grass. In growing the grass picking it up, nature and my interrelation arises.

【Japanese】
僕の趣味は概ね写真と盆栽である。盆栽というと松とか槙柏なんかのグネグネと曲がった重厚なデザインを思い浮かべがちだけど、実際には紅葉やケヤキなんかの雑木の盆栽も結構ある。その辺は「盆栽」でgoogleれば色々見られると思うけど、僕が特に紹介したいのは草盆栽。

草盆栽は常緑の盆栽に季節感を出すために添えられたりするけど、単体でも非常に面白い。ちゃんとやれば、奥が深い世界だけど、僕のは盆栽と同じく我流なので大変いい加減なもので、拾ってきた草を好みの鉢に植えて増えていくのを待つだけ。でも、結構面白いものが出来る。写真はネジバナといって公園の芝生に混じって良く生えているふつうの草である。でもランの仲間なので花は面白い。

僕が草盆栽にはまっているのは、近所で拾ってきた草を鉢に上げてベランダで育てるという行為が、僕にとっての世界との交渉だからだと思う。自然という言葉には慎重でいたいけど、自然といえなくもない。単純化すると、彼らは自然の一部でありながら、僕なしに成立しなくなったいう点で僕と自然の間を取り持つものであり、また詩的にいえば世界における僕の位置を定める一要素である。あるいは、みたいなものである。

実際に盆栽が見たくなったら、大宮の盆栽町に行ってみるのが一番いい。僕の家からは自転車で10分である。いいだろ。

5/08/2005

Marunouchi (In front of Tokyo station)


marunochi
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Scenery around Tokyo Station built in 1914 is changing because of the redevelopment of the surrounding.
Because the harmony of Cologne Cathedral in Germany and surrounding scenery becomes a problem, I am very interested referring.

【Japanese】
先日TVでケルンの大聖堂が周辺の新建築物による景観破壊を理由として世界遺産の危機遺産リストに登録されたことを知った。1996年に世界遺産に登録され2004年に危機遺産に登録されたということだったが、そんなに急速に都市開発が進んでいるのだろうか。ドイツではベルリンの再開発が進められているが、その他の都市は旧市街と新市街がはっきり区別されている秩序だった都市とステレオタイプ的に思いこんでいたので少し驚いた。しかし、よく考えてみれば旧市街と新市街が分かれていたところで、景観まではコントロール出来なかったということなのかもしれない。景観保全と都市の発展の調和が課題というような締めくくりだったけど、ドイツではどんな解答が出るのだろうか、ちょっと楽しみである。

写真は東京駅丸の内口の風景。左手は東京駅、中央はパシフィックセンチュリープレイス、右手は東京中央郵便局。この風景は面白いけど、八重洲口の再開発が全部こんなだったら鬱陶しいなと思っていたらヘルムート・ヤーン設計のこんなツインタワーが建つらしい。
ふむふむタワーは増えちゃうけど駅舎の背景は空けてあるのか。どんな景観になるのかな。駅舎の復元予定もあるようだしもうちょっと首都のセントラルステーションらしくなってくれると良いのだが。

ところでケルンの番組は終わりの一部しか見られなかったので再放送情報などあれば是非教えて下さい。

3/17/2005

MYONICHIKAN (Tokyo:F.L.Wright)

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This is a work of Frank Lloyd Wright in Tokyo. This building is wooden. Do you see the combination of the wooden architecture and cherry blossoms to Japan?

【Japanese】
フランクロイド・ライトにはあこがれているけれど、実際にみたことがある作品は池袋の明日館だけである。しかも、明日館はライトの作品の中では珍しい共同作品となっていて、設計のかなりの部分を日本人の遠藤新が担当しているという話を聞いたことがある。でも、この際、そこにはあまりこだわらない。

僕は建築に詳しくないが、明日館は木造で窓が大きくとられているからだろうか、とても軽くて美しく思えた。特にこの日は夜桜と合わせた公開で、幾何学模様の窓をフレームに桜をみる。木造建築と桜なんて組み合わせはやっぱり日本的なのかな、と思う。うん、もう少し、この光景の僕にとっての好ましさを表現するボキャブラリーがほしいけど、写真がいくらか伝えてくれるといいな。

写真をとるためにライトアップは最適だったけど、街灯と月明かりに浮かぶ桜のほうが本当は綺麗だろう。そこはデジカメを持っていない僕にとってはディレンマである。

3/15/2005

The Stone Garden of Kongobuji (Koyasan)



This is a garden of the buddhist temple in Koyasan. An especially big stone is used in this stone garden, and the back of the dragon that sees it between the clouds is expressed.

Koyasan is a head temple of one sect of the Buddhism, and a lot of sacred spaces can be experienced there.

【Japanese】
実家から近いので去年帰ったときにあらためて高野山へ行ってみた。思い返してみて面白かったのは金剛峰寺の石庭。他にも石庭はいくつかみたことがあるけれど、金剛峰寺の石庭ほどスケールが大きいものはみたことがない。写真の奥の木立や、左隅の門、右側の建物(現在も皇族の宿泊用)と比べて石の大きさと空間の広がりが分かってもらえるといいけど、写真でスケールを出すのはとても難しいので分からないかな。雲海から竜の背中が見える風景らしい。とにかく、大きいものが占拠している空間は非日常の世界への入り口だと思う。だだっ広い空間にもそんな感じがある。そこに何かしら大きな物体が据わっていれば、すぐに別の世界へ行ける。日本に限らず名所と呼ばれているところには結構このタイプの風景があると思う。他にもこのタイプの風景をみつけてこよう。

ところで高野山には、他にも森に包まれた歴史上の人物の巨大な墓石群や、壇上伽藍から奥の院まで連なる寺院など魅力的なものがいっぱいある。とくに御影堂は僕が最も好きな建築物のひとつだし、寺院の宿坊に泊まれば真言宗の声明(しょうみょう)というとても音楽的な読経を聞くことが出来る。一度いってみては?

3/13/2005

The Burghers of Calais in Ueno (Tokyo)

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This is The Burghers of Calais ahead of National Museum of Western Art in Ueno. I usually go to Ueno on a fine day, to go to the zoo or museums. Therefore, their background is always a blue sky. I think that the weight of their suffering might be different according to the environment.

In the world, there are so many The Burghers of Calais. Candida Hoefer showed us series of photographs that were composed of twelve The Burghers of Calais in different atmosphere.

In Ueno, there is Balzac, too. So I want to show you that next time.

Zwolf-Twelve

[ Japanese ]
上野の西洋美術館前のカレーの市民。ロダンのカレーの市民は世界中で様々な環境に置かれているが、上野は特に高いところに置かれている部類らしい。台座の下から見上げることになるのでディテールはよく見えない。僕が上野に行くときは美術館か動物園が目的なので大抵は晴れた日で、彼らの背景はいつも青空である。この日は特にイチョウの黄色とのコントラストが綺麗だった。自分を犠牲にして市民を救う苦悩の重さも環境によって異なるのではないかと思う。他のカレーの市民はどんな場所に立っているんだろうと思ったら、Candida Hoeferという写真家の作品に12の異なる場所に立つカレーの市民をあつめたZwolf-Twelveという本があるらしい。ちなみに上野にはバルザックもいるので今度通りかかったら写真を撮っておこうと思う。

Zwolf-Twelve


Balzac3
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後日、上野のバルザックを撮影したので紹介します。

Emotional Landscapes from Japan

I want to express my personal Landscape-Experience on this brog. The name of this brog was taken from Bjork's lyrics, because that is attractive word for me. But this Brog is unrelated to Bjork's lyrics. If you are interested in my photos, I'm very satisfied.

[ Japanese ]
Emotional Landscapesという言葉はBjorkの歌詞からですが、このblogと歌詞の内容とは関係ありません。学生の頃、友達の家で聞いた曲が耳に残っていて、言葉が気に入っていたので使っています。このblogでは私の個人的な風景の体験をwebを通して公開していきたいと思っています。無理して英語も使いますので意味が通じてないと思われる場合には教えて頂けると幸いです。だいたい通じれば多少のことは全く気にしないことにします!(断言!)
このblogについての感想をこの記事のコメントとして頂けたらとても嬉しいです。