9/15/2005

Moerenuma Park


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モエレ沼公園に行って来た。
189haの巨大な彫刻。イサムノグチはモエレ沼で一体何をしようとしたのか、一日過ごして考えた。とても充実した時間だった。

イサムノグチのプレイマウンテンや遊び場のいくつかの小さな彫刻を見たことがあるだろうか。模型と名の付く彫刻作品たちである。

明らかに建築的なそれらの作品を見ながら、多くの人は、特に子供であればそれがミニアチュアであると直感的に感じ、そこに自分を投じて遊ばせる。緩い傾斜の坂を上ったり、あるいは下ったり、複雑な階段を行ったり来たりする。
そのとき感覚的な空間のスケールは現実の制約から解かれ、大地がうねるような広大なスケールさえも感じることが出来る。

イサムは人間と空間の相対的なスケールの操作に彫刻家として強い関心を持っていた。それには、本人の言葉にも現れるように一つのきっかけとして日本の石庭の影響があった。

日本人が私的な庭園にしまい込んでいるスケール操作の技法は、空間の享受の方法としてもっと可能性のあるものであるという想いが、彼をかつてない芸術へと踏み込ませていく。
どうすればよいのか。眺めるだけではない空間の享受、言い換えれば自然の享受の方法があるはずだと(彼は確かに自然の享受という言葉を使っている。)。

しかし、だから実際に人間が歩き回れる彫刻作品をつくったのだということではない。

僕はモエレ沼を歩きながら、そして色々な角度から景色を眺めながら、「神遊」という言葉について思い出していた。
「神遊」とは、すなわち魂の逍遊のことである。仙人や仙女は生命力を得るために盆景・盆栽や(地)図など景色を縮小した霊的な世界に魂を逍遙させる。これを神遊というらしい(ロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』)。

アホかと思われるかもしれないが、モエレ沼へ行った人には分かってもらえると思う。
モエレ沼を実際に歩いていると、神遊に似た現象が自分に起きていることにふと気がつく。ここにいる自分から離れ向こうの坂道を上っていく自分の魂に気がつくのである。
なぜならば、一つには、向こうに自分より先に上っていく人々が小さく見えているからであり、一つには、身体を置いている非現実的なスケールの世界が感覚を刺激し虚構の世界への入り口を開くからである。そして、身体はその後、魂を追って実際にその空間を体験する。
それは心地よいものであり、自分に創造性が回復してくるのを感じると共に、次の体験を望まずにはいられなくなる。

この繰り返しが、人間と世界の関係を再構築していく。その現象を引き起こすことが出来れば、彼にとっては実際の空間の大きさなんて特別な意味を持ってはいなかったと思う。

結論を急ぐのはあまりにもったいないけれど、イサムノグチにとってのモエレ沼での挑戦は、一つとして、彫刻が空間の操作により世界と人間の関係をどのように顕在化しうるかということであったと思う。