3/11/2007

Japanese cultural landscapes


本宿
Originally uploaded by Yoichiro.


今まで書いたことはなかったが、仕事で関わった街のことをはじめて少し書いてみたい。群馬県下仁田町の本宿という街のことである。

本宿へは高崎から上信電鉄線に乗り、終点の下仁田で降りてバスで15分ほどで着く。上州姫街道という上州から信州へ抜ける中山道の脇往還の宿場町である。104戸の小さな街であるが、関が置かれたのが1593年(文禄二年)のことなので400年以上の歴史があるということになる。

物語山と本宿の家並み
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この地方の火山活動によって形成された山のかたちは、どれもとてもシンボリックで、見慣れない私にはどこを切り取っても絵画的な風景に見えた。街道は岩盤を削りつつ流れる鏑川に平行しており、本宿の街は街道に沿って川と山の境のわずかな土地に開かれている。幕末期の絵図をみると、街の形状や大きさは今もほとんど変わっていないことが分かる。街の中心の500mぐらいの区間には、木造の古い家や蔵が軒を連ねており、宿場の雰囲気が残っている。魅力的な小径や小川が幾つもあり、街を歩くのはとても楽しかった。

小径
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今回のプロジェクトは簡単にいうと3回のワークショップで、本宿の魅力をあらためて見直し、どうやってそれを人に伝えられるように引き出すか提案するというものであった。参加してくれた地元の皆さんが積極的だったので、わずか3回ではあったが、結果として今後のまちづくりにつながる動機は残せたのではないかと期待している。しかし、自己弁護ではないが、こういうプロジェクトでは、こちらが学ぶことの方が多いというのは、ある意味では共通認識であると思う。

今回、特に考えたことは表題の通り文化的景観についてである。思えば、「文化がない=人がいない」ところに景観はない(というか見られない)わけで、おかしな言葉ではあるが、文化的景観とは「自然と人間の営みの結合の所産」ということになっている。この意味で、本宿には山と川との長いつきあいから生まれた文化的景観が色濃く残っている。
例えば、ふんだんに火山性の石が手に入るため田圃も畑も土留めは全て石垣である。鏑川沿いの家屋は平場がわずかしかなく急斜面に建っているため、表の街道側は2階建て、川の方から見ると4階建ての「崖屋」という独特なつくりになっている。天窓(てんそう)のある養蚕家屋も自然と暮らしの結合の証明である。そもそも、この街の形態自体、自然の要求に従い決定されている部分が大きく人間と自然の共同芸術作品であるといえる。

石垣のある風景
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しかし、これらは全て本宿に生まれ育てば「当たり前」のものであり、特別めずらしいものではない。これを文化的景観というならば、所が違えばまた異なる魅力的な「当たり前」があるわけで、日本中が文化的景観で構成されているということになる。ではなぜ今、文化的景観という言葉がしきりに使われているのかというと「自然の営み」は変わらずとも「人間の営み」がすっかり変わってしまい、「結合の所産」が失われようとしているからである。前に紹介したフランスの「最も美しい村」もある意味では文化的景観を保全するための1つの試みである。以前からランドスケーププランナーにとっては重要なテーマであったので、「何をいまさら分かり切ったことを」といわれるだろうが、結局のところ日本では何一つ文化的景観を残していくための決定的な手立てが見付けられていないのだから、仕方がない。

先日、日本の都市が初めて直面する人口減少を前にして、これからの都市のあり方についてシミュレーションしてみるという企画展示+トークイベントがあり、試みは十分面白かったが、対象が「都市」だけにいまいち緊迫感がなくて物足りなかった。しかし、今、我々が前にしている課題はより切実なものである。
当然、文化的景観の保全は「ランドスケープ的」な手法だけで何とかなるものではないのだが、それを認めて様々な専門領域と協調しながらランドスケープのデザイナー・プランナーは何をするのか。これからも何もできないのであれば、少なくとも僕が期待したランドスケープアーキテクトなる職業は幻だったのだということになるだろう。(もちろんそれとは異なる領域で素晴らしい仕事をしていくランドスケープアーキテクトはいるのだと思うのだが。)

残念ながら今僕にできることは、今回のプロジェクトのような機会を与えてもらえることに感謝しながら取り組み続けることだと認めなければならないが、少なくとも日本には美しい「生きられた風景」があるということを発信し続けようと思う。

最後に文中で紹介した幕末の絵図はワークショップの参加者である神戸さんのブログへのリンクであることを感謝と共に断っておきたい。それから、もし、田畑貞寿・田代順行編著「市民ランドスケープの展開」(環境コミュニーションズ)を手に取ることがあったら、僕がラオスへ行ったときの文化的景観についての短い論考を載せていただいたので、開いて頂けるととてもありがたい(です。今読み返すと顔から火がでますが)。

本宿スライドショー

1/14/2007

Tokyo tower


Tokyo tower1
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東京タワーについて国の登録文化財への申請が検討されている。理由は2つ。1つは東京タワーが2008年に建設後50年を向かえ登録基準を満たすため、もう一つは第2東京タワーの建設により電波塔としての役目を終えるためである。

ある都市を思い浮かべるとき、その都市での空間的体験(あるいは映画などによる仮想体験)に基づき想起される巨大な建築など、リンチのいうところのランドマークとは異なった意味で、行ったこともなければさほど知識を持ち合わせていないのに、その都市と組み合わされて思い出されるいわば象徴的な建造物がある。例えばワシントン-ホワイトハウス、パリ-凱旋門・ルーブル・エッフェル塔、ローマ-コロッセオ、フィレンツェ-ドゥオモ、ニューヨーク-自由の女神、香港-中国銀行、そしておそらくは東京-東京タワー。


Paris
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この東京タワーはよくエッフェル塔と比して語られるが、根本的に異なっていることは、エッフェル塔がパリ万博の記念碑として建設され機能を持たされなかった(後に機能を付与されている)のに対し、東京タワーは電波塔として建設されたということである。つまり、エッフェル塔はロラン・バルトによるところの存在理由の外に出るものであったのである。


Tower of Sun02
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実は日本にも純粋なる記念碑として建設された塔がある。1970年、日本万国博覧会(いわゆる大阪万博)の象徴として建設された太陽の塔である。太陽の塔は他のパビリオンが機能の剥奪と同時に消えていゆくなか、ただひとりいまも生き続けている。はじめから機能を持たないがゆえに、排除される理由もないのである。これについては、flw氏の記事が詳しい。

そして、ようやく東京タワーも機能の束縛から解放され、完全に無益なものへ、記念碑の零度を実現するものへ昇華しようとしている。これは東京にとって何を意味するのだろうか。

(ロラン・バルト「エッフェル塔」を再読後、加筆修正の予定)