7/29/2005

Sculpture


my sky hole
Originally uploaded by Yoichiro.



【Japanese】
彫刻は置かれるものである。もしかすると置かれない彫刻というものもあるのかもしれないけれど、かたちのあるものである限り、まあ、まずどこかに(例えば真っ暗な倉庫の中であったとしても)それは置かれるだろう。カレーの市民のところでも書いたけれど、彫刻には置かれる場所がある。

空の穴は、空にあいた穴?空を切り抜く穴?

これは僕が好きな彫刻作品。たぶん見たことのある人も多いはずだと思う。大きな作品の一部だけを見ているから一体どんな作品なのかわからないと言われるかもしれないけれども、この作品のタイトルは『my sky hole』。

僕は、この写真に写っているものを彫刻だと言っても差し支えないのではないかと思う。この彫刻をみるとき、彫刻にとって置かれる場所がどんなに重要かということを考える。あの空がなくなってしまったら、この作品はきっと台無しである。こういうのもEarth Workといえるんじゃないかな。その辺については、もう少し勉強してからいつか言及したい。

ところで、この作品は穴のあいた大きな銀色の球体である。だからこの作品には周りの全てのものが取り込まれる。黒い穴のあいている部分を除いては。だから、空にも穴があくのである。

この美しい彫刻は、東京都美術館の広場に「置かれて」いる。


井上 武吉 Bukichi Inoue 『my sky hole 85-2 光と影』
TOKYO METROPOLITAN ART MUSEUM

7/18/2005

HAUS・HYAZINTH


HAUS_HYAZINTH1
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HAUS_HYAZINTH2
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This is a house that a young poet designed. After 65 years had passed since he had died, it was built. He died at the age of 24 though he was a fine poet and a fine architect.

【Japanese】
今日は休みだけれども暑くて遠出する気にはならなかったので、最近気になっていたヒアシンス・ハウスを見に行くことにした。


「ヒアシンス・ハウス(風信子荘)」は詩人で建築家であった立原道造が、別所沼の畔に思い描いていた週末住宅である。立原は、平面図やスケッチだけを残して24歳で死んでしまったが、これこれのことがあり、詩人の死後65年たった去年、その小屋は建てられたのである。
立原の構想では別所沼の東に建てる予定であったが、今は西側に建って居る。今は公園になっているので、かつて彼の窓に求めていた景色はここにはもうないだろう。それでもヒアシンス・ハウスは面白い。

小さくて簡素な建物である。彼は窓にこだわった。大きな窓が南東にとられており、今は別所沼を臨んでいるが、本当はこちらは沼ではなく、ベッドサイドの小さな窓から沼がみられるように考えられていた。
今は北東の角に小さな流し台が付け加えられているが、立原の図面には便所も台所もない。本当にここで暮らすつもりがあったのかと思うが、すぐ近くに交流のあった詩人の居宅があり、そこの便所を借りるつもりだったという。

でも、彼はヒアシンス・ハウスの構想から2年で死んでいる。僕は何となく彼は死の影を感じていて、言葉だけをこの小屋に詰め込もうと考えたのではないかと思ってしまう。彼の詩のように。彼の詩集はとてもビジュアルである。14行の詩が、小さな版画と共に、譜面のような大きな紙にレイアウトされている。

Bonsai


nejibana
Originally uploaded by Yoichiro.



My hobby is a photograph and a bonsai. This is a bonsai of the grass. In growing the grass picking it up, nature and my interrelation arises.

【Japanese】
僕の趣味は概ね写真と盆栽である。盆栽というと松とか槙柏なんかのグネグネと曲がった重厚なデザインを思い浮かべがちだけど、実際には紅葉やケヤキなんかの雑木の盆栽も結構ある。その辺は「盆栽」でgoogleれば色々見られると思うけど、僕が特に紹介したいのは草盆栽。

草盆栽は常緑の盆栽に季節感を出すために添えられたりするけど、単体でも非常に面白い。ちゃんとやれば、奥が深い世界だけど、僕のは盆栽と同じく我流なので大変いい加減なもので、拾ってきた草を好みの鉢に植えて増えていくのを待つだけ。でも、結構面白いものが出来る。写真はネジバナといって公園の芝生に混じって良く生えているふつうの草である。でもランの仲間なので花は面白い。

僕が草盆栽にはまっているのは、近所で拾ってきた草を鉢に上げてベランダで育てるという行為が、僕にとっての世界との交渉だからだと思う。自然という言葉には慎重でいたいけど、自然といえなくもない。単純化すると、彼らは自然の一部でありながら、僕なしに成立しなくなったいう点で僕と自然の間を取り持つものであり、また詩的にいえば世界における僕の位置を定める一要素である。あるいは、みたいなものである。

実際に盆栽が見たくなったら、大宮の盆栽町に行ってみるのが一番いい。僕の家からは自転車で10分である。いいだろ。