HUNDERTWASSER
HundertwasserHousVienna
Originally uploaded by Yoichiro.
フンデルトヴァッサー。彼は建築家ではなく、芸術家である。多くのドローイングや版画、空想の建築や街の模型などの彼の作品は、彼自身がデザインした(正確には再設計した)Kunst Haus Wienに恒久的に展示されている。彼の建築模型は植物に覆われているか、あるいは内部から樹木が生えている。直線、定規、T定規の独裁に抗い、フリーハンドか、あるいは人や動物が歩いた跡のような線で不思議な調和がもたらされている。柱や床さえも水平と垂直の束縛から解き放たれ、全ての輝く色にあふれている。街は丸ごと大地に埋まり、目や口のような窓や出入り口が、土地の起伏の谷間に見えるのみである。彼の根底にあったものは、自然と人間の創造性の調和が取れた関係の回復。人間性の破壊に対する抵抗。
彼の建築思想はいくつかの建築によって実現されている。最も魅力的なものはおそらく、ウィーンの中心市街に位置する市営住宅Hundertwasser Hous である。そして、建築の治療、つまり建築医としての最も有名な仕事は、ウィーンにあるシュピッテラウ地区暖房施設の再設計である。このゴミ焼却場であると共に地区の集中暖房施設である工場は、ある事情により日本では知っている人が多い。
それは、大阪市がフンデルトヴァッサーにデザインを依頼し、大阪湾の人工島に建設されたゴミ処理施設、舞洲工場へのメディアによる批判によってである。この報道により初めてウィーンのシュピッテラウ地区暖房施設を知った人は少なくないはずである。批判の中心は、建設費が莫大であること、建設にあたっての検討が市民不在のまますすめられ、建設された後もほとんど市民に知られていないことなどであった。しかし、気をつけなければならないのは、中にはゴミ処理施設の外観として相応しくない、公共建築には機能のみを求めるべきであるといった意見があったことである。これは危険な誤解を含んでいる。フンデルトヴァッサーのデザインが大阪に必要であったかどうかは議論するべきだが、あれだけ巨大な公共施設を機能を満たすだけの建築として都市に出現させることは犯罪的であるといわなければならない。そのような考え方の結果が、まるで芸術や文化を否定するかのように無批判的な建築にあふれた私たちの都市である(都市と呼んでよければ)。こんな都市をつくっておきながら芸術文化振興など空々しくはないだろうか。公共建築は建築のみにとどまらず、都市の文化を牽引するものでなければならないというのは、ある世界では、極めて基本的な認識ではなかったか。
舞洲工場 Maishima
Originally uploaded by Yoichiro.
最後に結論として私も舞洲工場にフンデルトヴァッサーのデザインは必要ではなかったと考えていることを、シュピッテラウと舞洲工場の次の3つの相違により示したい。こういう議論が日本の都市でもっと展開されるようになって欲しいという願いから。
1.フンデルトヴァッサーにとっての建築による表現は、アドルフ・ロースとの対決であり、グスタフ・クリムトとの協調であり、オットー・ワーグナーとの対話である。つまり彼はウィーンと共にある。
2.フンデルトヴァッサーはシュピッテラウ地区暖房施設の設計を新たな文化遺産の創造として誇りを持って行ったのであり、そのため報酬は受け取っていないどころか、かなりを自己負担している。
3.シュピッテラウ地区暖房施設は、人間味を失った建築の治療として再設計されたものである。