ラベル earthwork の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル earthwork の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

7/08/2006

大都市軸 Axe majeur


Axe majeur 04
Originally uploaded by Yoichiro.



Axe majeur 05
Originally uploaded by Yoichiro.



Earthworks has left the city to deny the white cube. However, a lot of earthworks are in the city today. I think a modern identity-less city requests the sitespecific art. ‘Axe majeur’ in Cergy Pontoise is the one example.

【 Japanese 】
フランスへ旅行に行った。今回は、あまり見るものを決めずに行こうと思っていたのだが、せっかくだから一カ所ぐらいはと、パリの北西、セルジー・ポントワーズ Cergy Pontoiseに行った。彫刻家ダニ・カラヴァン Dani Karavanの「大都市軸 Axe majeur 」を見るために。

セルジー・ポントワーズは、セーヌの支流、オワーズ川の段丘上に築かれた新都市である。そして、その丘の上の塔を起点とする強い軸線は、坂を下って、12本の列柱を通り抜け、池に向かって階段を下り、パリを指している、ということである。ここに立ってそれを確かめることは不可能ではあるのだが。
パリの衛星都市なのだから、パリとの関係によって成り立つ。そのことを象徴する軸線が一直線に刻まれ、新都市の秩序の基線となる。
そんなものが、一体なぜ都市に必要なのか。そして、なぜその機能が芸術作品に求められたのか。僕の興味は、まあそんなところだったと思う。

ところで、もし「大都市軸 Axe majeur 」をアースワークと呼ぶとしたら、かつてのアースワークとの間に線を引かなければならないだろう。つまり教科書的にいえば、アースワークには特定の場所との関係により成り立つ、サイトスペシフィックであるという側面に加えて、空間も時間も文化も越えて交換可能なホワイトキューブへの反発として、人跡未踏の地にとうてい美術館には納まらない作品をつくるという側面があったはずである。(結局、作品は写真になってホワイトキューブに帰ってきたというオチはあるけど・・・。)
然るにこの作品はパリから電車に乗れば、1時間もかからずに気軽に見に行けてしまうのである。たいした知識があるわけではないが、こういう「気軽に行けちゃうアースワーク」は、本来のアースワークとは対照的に増えているような気がする。これは、結構面白い現象なのではないかと思っているのである。

そんなことについて何となく考えていると「ホワイトキューブ化された都市に、サイトスペシフィックな芸術作品が求められる」という命題が浮かび上がってきて、現代的な都市を象徴する現象かもしれないなと思った。本来、人間にはここが何処であるかを保証するものが必要なのだと思う。

ランドスケープアーキテクト的な言葉では、「眠る地霊を呼び覚ますか、虚構の地霊を祀るか」といったところか。カラヴァンの作品には、どちらとも取れるところがあるが、見る側もきっと両方に魅力を感じるのだと思う。

参考

※これを書きながら「サイトスペシフィックな生活」という言葉が浮かんだのだけれども、ウィーン分離派のいうところの「綜合芸術」と近い言葉だと感じている。いつかこのことについて考えたい。

9/23/2005

ARTE PIAZZA BIBAI


arte03
Originally uploaded by Yoichiro.



arte06
Originally uploaded by Yoichiro.



arte01
Originally uploaded by Yoichiro.



アルテピアッツァ美唄のことを知ったのは、全くの偶然に安田侃氏本人に教えてもらったからだった。4年ほど前、その日は用事があって友達と目黒の自然教育園へ行って、時間が余ったから隣りの庭園美術館へよった。そのときの展示はまるで覚えていないが、庭園美術館はアールデコが好きなのでたまに行く。ふらふらしていたら日が沈む少し前の庭で白い石の塊を磨いている人がいた。それが安田さんだった。僕がランドスケープアーキテクチュアを勉強している学生だといったら安田さんはからかうように本当に勉強しているのか?といって笑っていた。そのときに北海道の美唄にあるアルテピアッツァに来るようにと誘われたのだった。それからずっと心にとまっていたが今年ようやく行くことができた。

アルテピアッツァを説明するとき、なんと表現すればよいか難しいが、平たくいえば彼の故郷・美唄の小学校の廃校を地とした彫刻家安田侃の作品群である。その日は小雨がかすかに降っているような日だった。安田侃の彫刻は空間芸術だというのは一般的に理解されているのではないかと思う。その作品は水面に投じられた小石のように、空間に作用し波紋を広げていく。僕たちの目には、とても自然でありながら美しい文様を波打つ世界しか写らない。

僕はファインダーを覗きながらモエレ沼との違いを想っていた。前日に行ったモエレ沼でも僕は非常に興奮していたが、明らかにアルテピアッツァでの方が多くシャッターを切っていた。なぜだろう。結論としてここで写真を撮るときにはまるで安田侃と対峙しているような緊張感があるからだと思った。決定的な違いは、アルテピアッツァの全てが安田侃によりかたちづくられているということではないだろうか。イサムノグチは残念ながらモエレ沼の実現を指揮することがかなわなかった。

アルテピアッツァの全ての彫刻は、安田により森や水面や広場や丘や校舎や他の彫刻や空との緊張関係が保たれている。そして、雨やそこを歩く人も、全ては彼の作品の構成要素である。僕は写真でしか見たことがないが、かつての炭坑の街に降り積もる雪はまさに彼の作品の一部である。そういって瀟湘八景を思い出したがここではやめておこう。

安田さんは自分をアルチザンだと言っていた。僕はアルチザンでもアルチストでもないが、ファインダーを覗きながら芸術にみたされるのを感じていた。

9/15/2005

Moerenuma Park


moere6
Originally uploaded by Yoichiro.



moere2
Originally uploaded by Yoichiro.


モエレ沼公園に行って来た。
189haの巨大な彫刻。イサムノグチはモエレ沼で一体何をしようとしたのか、一日過ごして考えた。とても充実した時間だった。

イサムノグチのプレイマウンテンや遊び場のいくつかの小さな彫刻を見たことがあるだろうか。模型と名の付く彫刻作品たちである。

明らかに建築的なそれらの作品を見ながら、多くの人は、特に子供であればそれがミニアチュアであると直感的に感じ、そこに自分を投じて遊ばせる。緩い傾斜の坂を上ったり、あるいは下ったり、複雑な階段を行ったり来たりする。
そのとき感覚的な空間のスケールは現実の制約から解かれ、大地がうねるような広大なスケールさえも感じることが出来る。

イサムは人間と空間の相対的なスケールの操作に彫刻家として強い関心を持っていた。それには、本人の言葉にも現れるように一つのきっかけとして日本の石庭の影響があった。

日本人が私的な庭園にしまい込んでいるスケール操作の技法は、空間の享受の方法としてもっと可能性のあるものであるという想いが、彼をかつてない芸術へと踏み込ませていく。
どうすればよいのか。眺めるだけではない空間の享受、言い換えれば自然の享受の方法があるはずだと(彼は確かに自然の享受という言葉を使っている。)。

しかし、だから実際に人間が歩き回れる彫刻作品をつくったのだということではない。

僕はモエレ沼を歩きながら、そして色々な角度から景色を眺めながら、「神遊」という言葉について思い出していた。
「神遊」とは、すなわち魂の逍遊のことである。仙人や仙女は生命力を得るために盆景・盆栽や(地)図など景色を縮小した霊的な世界に魂を逍遙させる。これを神遊というらしい(ロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』)。

アホかと思われるかもしれないが、モエレ沼へ行った人には分かってもらえると思う。
モエレ沼を実際に歩いていると、神遊に似た現象が自分に起きていることにふと気がつく。ここにいる自分から離れ向こうの坂道を上っていく自分の魂に気がつくのである。
なぜならば、一つには、向こうに自分より先に上っていく人々が小さく見えているからであり、一つには、身体を置いている非現実的なスケールの世界が感覚を刺激し虚構の世界への入り口を開くからである。そして、身体はその後、魂を追って実際にその空間を体験する。
それは心地よいものであり、自分に創造性が回復してくるのを感じると共に、次の体験を望まずにはいられなくなる。

この繰り返しが、人間と世界の関係を再構築していく。その現象を引き起こすことが出来れば、彼にとっては実際の空間の大きさなんて特別な意味を持ってはいなかったと思う。

結論を急ぐのはあまりにもったいないけれど、イサムノグチにとってのモエレ沼での挑戦は、一つとして、彫刻が空間の操作により世界と人間の関係をどのように顕在化しうるかということであったと思う。

7/29/2005

Sculpture


my sky hole
Originally uploaded by Yoichiro.



【Japanese】
彫刻は置かれるものである。もしかすると置かれない彫刻というものもあるのかもしれないけれど、かたちのあるものである限り、まあ、まずどこかに(例えば真っ暗な倉庫の中であったとしても)それは置かれるだろう。カレーの市民のところでも書いたけれど、彫刻には置かれる場所がある。

空の穴は、空にあいた穴?空を切り抜く穴?

これは僕が好きな彫刻作品。たぶん見たことのある人も多いはずだと思う。大きな作品の一部だけを見ているから一体どんな作品なのかわからないと言われるかもしれないけれども、この作品のタイトルは『my sky hole』。

僕は、この写真に写っているものを彫刻だと言っても差し支えないのではないかと思う。この彫刻をみるとき、彫刻にとって置かれる場所がどんなに重要かということを考える。あの空がなくなってしまったら、この作品はきっと台無しである。こういうのもEarth Workといえるんじゃないかな。その辺については、もう少し勉強してからいつか言及したい。

ところで、この作品は穴のあいた大きな銀色の球体である。だからこの作品には周りの全てのものが取り込まれる。黒い穴のあいている部分を除いては。だから、空にも穴があくのである。

この美しい彫刻は、東京都美術館の広場に「置かれて」いる。


井上 武吉 Bukichi Inoue 『my sky hole 85-2 光と影』
TOKYO METROPOLITAN ART MUSEUM