3/14/2008

Looking for a piece of painting

急に思い立って、また書いてみようと思う。実に一年ぶりに。
去年も色々な旅をして、幾つも記憶に残る風景を見たが、一番鮮明に残っている風景について。
まとまらない文章になる予感があるけれど。

このブログのタイトルはEmotional Landscapesだが、このタイトルにしようと思ったときに1枚の絵のことを思い出していた。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774- 1840)の「海辺の僧侶」である。この絵を見たのは多分、図録か何かだったのだと思う。解説の文章もかすかに覚えているし、2003年の国立西洋美術館のドイツロマン主義展で見たと思い込んでいたが、さっきカタログを引っ張り出したら、ドレスデン版画素描館のものだったので、前述の作品は来ていなかったはずである。だから正確には見ていないということになるけれど、とりあえずアウラの問題は置いておいて、タイトルを考えたときに思い出したのがこの絵だったことは確かである。(弁解すると他のフリードリヒの絵はドイツロマン主義展でみている。)

おかしな絵だと思う。画面の8割は灰色の曇り空、残りは暗い海と白く浮き上がった断崖で、僧侶はどこにいるのかと探せば、海と同化してしまいそうな黒い小さな塊のうえに頭らしきものが乗っている。そのとき率直にいって、これは風景画なのだろうかと違和感を感じたが、解説にはたしか冬のドイツの冷たい海と孤高の僧侶の精神との一体性を表現しているという主旨が書かれており、自分なりに納得した記憶がある。

つまり、画面の比率としては全く風景を描いているのだが、実際に表現されているのはむしろ僧侶の内面世界であるということなのだと。特に素人らしい私の傾向として、絵画や彫刻の美的な完成度よりも記号に意識が行きがちなところがあるので、その時には分かったような気持ちになっていたと思う。

ただ、この絵を思い出すときにいつも考えることは、果たして精神は僧侶のものだったのか、もしかして、この絵に表現されている精神は暗い海と空のものではないかということである。

自分の経験に照らしてみて思い当たることがないだろうか。突然、厚い雲が空を覆って雨がたたきつけるように降り出し、まるで世界が無音になったように感じるときの孤独感と高揚感。一面の草原が一斉に揺れ、向こうから風がやってくるのが目に見えたときの期待感。台風が来る前の不穏な静かさに感じる畏怖。そういう感情はそれまでの自分と脈絡無く、その風景の顕現とともに突然湧き上がってくるもの、つまり風景が持っている感情だと思っている。そして、いつもこの世界との一体感をとても楽しんでいる。

人間は複雑だが一方で単純であり、精神が身体により大きく左右されるのと同じく、外的世界によっても簡単に影響されてしまう。内的世界と外的世界の境界は不明確であり、感情も風景も一体どちらに属しているのか、はっきりと答えることはできない。感情が風景にあるというとき、同時に風景も私の内側にあるということができるのではないか。

話を元に戻すと、タイトルにしたEmotional Landscapesという言葉は、文字通りであれば「感情的な風景」であって、これまで述べたことにしっくりくると思ったのである。日本語は優れていて「情緒的な風景」というと、結局全てを含意していまうように思うが、あえて「感情的な風景」といいたい。

そして、去年の夏、五島列島の福江島で見た風景はまさに「感情的」であったと思う。
私は、旅の大きな喜びは、まさにこうやって風景の感情を受けいれることにあると考えている。


五島列島(福江島)
Originally uploaded by Yoichiro.



ほらね、やっぱりまとめきれなかった。